昭和46年05月25日 朝の御理解
御理解 第98節
「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、取分け平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」
神様にお伺いを立てる、お伺いをすると云う様な。金光様の御信心は、神様と私共が始終直結しておれれる、ね、何時も神様と通うておれる。其処に神様にお伺いをさせて頂いたら、その場で御返事を下さる。そう云う神様と私共との仲にです、所謂心安いと言うかね。心安い仲とでも申しますかね。所謂神様と仲良うする信心ぞと仰せられる訳。その神様と心やすうして見る、と云う様な信心を教祖御自身なさっておられて、それを私共にも、この様な風に教えておられる。
毎度お伺いてなんて出来るもんか。神様ってのはもうそんなのと言うのではなくて、ね。ただ問題はそおう互いの信心をさせて頂くその心の状態。ね、所謂信心者の心の状態というのが、どの様になからなければならんか。それをです、ね、自分はお道の信心をさせて頂いておるが、果たしてお道の信者らしい心の状態でおるであろうかと、何時も自分と云う物を確かめ、確かめ確かめして行けと言う事にもなる。心の信心の定規。所謂心が信心者の定規なんだから。金光様の御信心させて頂く者が、ね。
お道の信心をさせて頂く者が、ね。心の状態という物をまっ言うなら厳密にね、何時も自分でそれを見極める自問自答して行く。そう言う私は信心の稽古をさせて頂く者にとってです。それこそ尺で計った様に何時もキチッとした信心生活をして行けと言う事だとこう思うです。心は神信心の定規じゃ。神信心させて頂く者の心の中にです。そう言う心の状態があって良かろうはずがないじゃないか。そう言う事では勿論神に神様へお伺いをする事は出来ん。神様に所謂心安すうしておるとは言えん。
神に近付いておるとは言えない神に近付くと言う事ね。何時も神様が身近におって下さる。神我と共にあるなどと言うのですけれど。成る程事実の上において天地の親神様は、私共から離れ様として離れなさる事の出来ない御性格の神様なんですからね。清き所も汚き所も隔てなくお守り下さるのですから、どの人間どんな氏子と言うて隔てをなさるはずはないのです。信心のあろうがなかろうが神様はいつも御守護、所謂お守り下さらなければならない御性格の神様。
けれどもそれはそれと現すのは、私共人間氏子でなからなければならない。ですから、その現して行くと言う事の為にです、心は神信心の定規じゃによってと。絶えず自分の心に神信心のさせて頂く者の処の状態が、ね。是れで良いか是れで良いかと云う様です。自分の心の状態を確かめて見ると言う事、ね。此処にはお伺いをする時には、取分け平気でなければならんと言う、いわば神様へ向かわせて頂く心の状態を、まあ此の様に言うておられます。皆さんも御祈念をなさり心は平生。
ああこう言う心を平生、平生心と言うのであろうかと云う様な時など、ね。やはりお伺いを人見ず稽古をされる事も有り難い、ね。自分で所謂身凌ぎの出来る様な信心。神様に自分が直接お伺いが出来る様な稽古も有り難い。落ち着いて静かに願え。福岡のある教会の、もう相当古い教会ですが、女の先生がお徳を受けられた先生があります。其処にお参りをさせて頂いてお伺いをさせてもらうとね。
その場であげてまた明日参らなきゃならん。ね、その先生は一日信者が参って色んなお伺いをすると、それをちゃんとこう控えておられてから、夜夜中もう人が寝静まってそれこそ静かな静かな、その雰囲気の中で神様にお伺いをされる。そして明くる日参って来ると、ああアンタのはこうだったアンタのは、ああだと言うてお指図をされる、そう言う先生がおられます。だからそういう一つの静かに願えと言う事は、静かに願うと言う事と同じに、やはり静かな雰囲気と言った様な物もやっぱ必要ですね。
夜夜中丑三時成りと言う、ね。もう草木も寝静まったかと思われるように、シンとした中に神様へ向かう。これなんかも私は稽古させて頂く者は、そのくらいな修行がなされなけりゃいけないと思う、ね。またそのぐらいなその好奇心、信心させてもらう者の好奇心と言うかね。そう云う様な物もやっぱりある事はいいと思う。どうですか皆さんいやもう夜夜中時間をはかかって、忽然ではなかったと云う様な事があるでしょう。
いいものです。本当に信心あのずうっと自分の願いがお伺いをしても、こう返事は頂けんにしましても、自分の願いを神様が一々合点して、ついておって下さる様な気分が致しますね。稽古が大事です。ね。段々それが私はあの、何時でも何処でも、どんな処ででもお伺いを致します。バスの中であろうが、汽車の中であろうが。ね、御返事を下さると言う事はただ胸に胸知らせと言うのがありますね。
胸にそう行動しなければおられない程しに、ハッキリ胸に感じさせて下さると云う様な事から。ね、ハッキリ此の肉眼でまたは心眼で心の眼で。または心耳で又は肉の此の耳で。又は此の目で。ね、あの汽車の中やらバスの中でお伺いされる方があるんですよね。そう言う時には所謂やはり静かな、それが必要であるのですから、あの所謂雑音が入っておりますし中々お伺いし難い。
そう言う時にはね、私は傍に誰かが新聞なら新聞を読んでおられるなら、その新聞の見よるその中から返事を頂きます何時も。それはどう言う事かと言うと目を持って目で。ね、なら肉眼の目で見せて頂く訳なんです。そして此処の処が、此の氏子がお伺いを立てておる事の返事だと言う事になる訳です。ね、それでもやっぱりそうですね、此処20何年の間に何回か、私は御結界に座っとるとお伺いがあった時にですね。
ちょっと私今日はお伺いが出来んから、ちょっと待って下さいと云う様な時は無いじゃないです。やはり心がこの平生心でない。平地でない時にはやっぱお伺いは出来ませんですね。まあそう言う意味でのお伺いと云う様な事が、大体この98節では強いようですね。だから信心させて頂く者の神様に向かう心の状態とか。また心は神信心の定規じゃと仰るから、信心者であってから、此の様な心事で良かろうかと。
何時も自分を尺に計って、ね、確かめて見ると言った様な事が大事であると云う様な事も、やっぱり此処ん処から感じられますね。心は神信心の定規じゃから。ね、神信心させて頂いとる者が、ね、こう言う間違うた心の状態で良かろうはずはない、と改めて行くと云う様な事も、此処には感じられますし。お伺いをする時には、取分け平気でと言う、此の辺になって来ると、今私が申しました様なお伺いに通じますですね。
だから皆さんでもやはり、お伺いをする稽古をなさると。なさらなきゃいけません訳です。ね、またその様に神様と言う、私共との間は身近うなからなければいけんのです。ね。実にその自然はね、あの私共に何時でも、様々な事柄の中から、本当な事を分からせよう、本当な事を分からせようなんて言う働きがあるんですよ。高芝さんじゃないですけど、一偏何かの試験に行かれた。
何をまあ( ? )たんでしたでしょうか。だから向こうのは難しゅうして分からん事ばっかりげなもん。ただその度に神様に鉛筆を立てておいてから、右に倒れた時にはどっち、左に倒れた時はどっちと言う風でね、それでずうっとこう答案用紙を。したらそれがまあ大変成績が良かったと云う様な。是れは高嶋さんじゃなくても、やっぱ愈々の時にはそれも一つの手ですね。
ようあの、〔 ? 〕のところへ参りますとあの昔の何ですか。あの遊び人の方達は、三度笠をバーッと上に投げて見てから、右に行ったら右の道を通る。左に行ったら左の街道を通ると言った様な、あれなんかでもだからその例えば何だ。自然はね本当に良い方へ導こうとする働きを確かに示してくれるです。ね。それがましては神様ましては信心させて頂く者がです。だから自分の頂いておる神様に御神意を伺うと云う様な事はあって、言えるはずなんです。ね。
98節がその様な風にそのお伺いの要領と言った様な物を、平気でとかまた落ち着いて静かにとかと言う風に教えとられます。其処でです私はまあ此処の処で、今日私が感じる事なのですけれども。平気でなければならん、また神信心の定規じゃによってと仰る。定規に計って見て、どの様な心の状態の時なら良いだろうかと言う事を聞いて頂きたいと思うのですよね。神信心の、心は定規なのですから。
はあ此の様な状態の時なら良いんだなとか。また平気でなければならんと仰る平気とは、どう云う様な平気と言う事を。ただうっかりしておると言った様な時に、平気と思うとる様な場合もありますからね。何も考えてない平気なのそれではない。昨日私はある方の事をお願いさせて頂いておった。そしたら大変まあ難儀な問題の方なんです。そしたらね、昨日あの40節と39節からね40節を始終。
39節をサンキューと言うとる間は有り難いと。始終何時も心の中に有り難いと云う様な意味の事を、其処から、まあ文字って頂いたんですね。まあそんな意味ですね。それを数字でね三九と頂くんですよ字で。処がその三九がね三という字が小さいんです。そして九と言う字は大きいんです。それぞれを書いておいたならどう言う字になるか。三が小さい。で九と言う字は大きい。ね。
そういう例えば難儀な問題をお願いをさせて頂く、おかげを頂かねばならんなら、ね。もちっと、三の方も大きゅうせんかち言う意味なんですよ。ね、九と言うのは苦労の九です。苦労の九がんこなに大きい。それは成る程私が聞いても本当に大変だろうと云う様に、九と言う字が大きい苦労が大きい。そんならまちっと三の方ば大きゅうせじゃこて。でなかったら三九て有り難いて言う事にはならん。
信心不足だまあだ修行不足なんだと言う訳なんです。三と言う字は漢字で書いてご覧んなさい。お参りと言う事になるです参拝の三になるです。まあだ参拝が足らんちと言う事は、修行が足らんと言う事にもなる。だから自分の苦労と言う物が百なら、やはり信心も百の修行、信心せにゃ駄目です。朝参りしよるけん良かろうてなんてんごんな事っじゃでけん。それこそ先程から申しますように夜も無からなければ、夜中もない。
たまには遅い丑三時の時間を見はからって、神様に水垢離とって拝むちゅうぐらいな気持ちでなからなければ、おかげを受けられませんです。ね、例えば今日私が申しております様な事を大変程度が低いな、金光様の御信心はと言う様な人があるかも知れませんけれども、是は信心を進めて行く一つのね、やはり要件なんです必要なんですよやはり。ね。どうでしょうか丑三時に水垢離どん取って、本当に自分の苦しい事を願われた事があるでしょうか。本当に自分はこう言う大変な事を願っておるであるから。
此の位な修行は当たり前と思うて、ね、人のせんそれこそ人の持たない程しの苦労をしよるならば、人の真似の出けんぐらいな修行をしなければいけん事は、もう理の当然です。一偏参ったけん良かろうと言った様な事じゃでけん。何時もかつも自分の心の中に定規を押し当てて、自分の心の中におかげを頂かせてもらう。今日私御祈念中にこう言う事を頂いた。天地書き付けなんです。
生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと。今月今日で頼めいとこう、天地書き付け。いわゆるおかげは和賀心にありとこう。処が、その天地書き付けにですね、一心に願えと云う所に、こうやってから、あの習字が入れちゃる。此処へ、印をこうこうしとる印があるでしょう。こうしてその天地書き付けのね、一心に願えという処ろへ、こうやって印を入れてある。
ははあ私は今日それを頂いてから、もう本当に神様っちゃあ何とおかげ頂かせようごつして、こう絶えんと言う思いでありなさるなあと思いましたよ。おかげは和賀心にある、おかげは和賀心にある。例えば心は神信心の定規と言う、その定規に押し当てて見てです。自分の心が、和らぎ喜ぶ心で一杯いの時には、是れはもう立派ないわば平気平生心であり、または平気であり。
そう言う心の状態でね、お伺いをすんなら素晴らしかろうと言う事になる、ね。処が中々私共の場合、和賀心と言う物が難しい。ね、だから神様は必ずしも和賀心にならんでもです、その和賀心になる事を、一心に願う心におかげがあると仰る。だから今日の御理解はね、言うならば和賀心にあるではなくて、一心に願う心にある。ね。それを例えば一心の真を捧げて願うと言う事も言えるでしょう。
一心不乱に願うと言う事も言えるでしょう。 けれども今日私が頂いてこのこう印入れて頂いて、私が一番始めに実感した事はです。ね、どうぞ私の心の中に和賀心を与えて下さい。信心者としての心を与えて下さいと一心に願うと、和賀心でなくても。だから何時もが、こう言う状態であれば良い訳なんです、和賀心ではなくても。ね。今私の心は乱れとります、今私の心はイライラしよります。ね。
こう言う心の状態では、信心者として神様にも相すいません。どうぞ神様私の心の中に和賀心を与えて下され、和賀心にならせて下されと言うて、一心にその願う心にある。和賀心にならなければ、おかげはやらんぞと仰るのじゃない。何時もだから一心に私共の心の上に、神様にお喜び頂ける様な心の状態を、何時も願っておくと言う事なんです。そう言う心におかげがある。おかげは和賀心にはもちろんですけれど。
おかげは和賀心であらなくてもです、和賀心になりたいと、一心に願う何時も願っておると言う心にあるのです。またそれでおかげは受けられるです。素晴らしいですね金光様の御信心は、私は本当に、その神様の御心情をね、本当に感じさせてもらいます。どうぞ私の心に和らいだ喜びの心を与えて下さいと一心に願っておる、その心におかげがあるのです。ですからその心は神信心の定規じゃと言われる。
成る程此処に求められるのは平生心であり、和賀心でありね。所謂平気な心とはそう言う心の事なの。処が不思議にですね私共が本気で、本気で神様に喜んで頂ける様な心になりたいと一心に願っておる時の状態はね、いわばその平地に近いんです、平生心に近いんです一番どうぞ私の心にね、信心者としての心の状態を与えて下さいと願う心。どうぞ右にして下さい、左にして下さいばっかり願うたっちゃ駄目です。ね、
それは例えば今日私は天地書き付けのその、一心に願えと云う所をですね、そのそう言う風にも取れるんですよ。一心にどうぞ右にして下さい。そんなら本気で一心に願え。それも、私はあると思うです。願っても悪いちゅう事じゃない。そんならそこに一心の真を立てての願いになり。同じにその先程から申しますように、それこそ丑三時を時間を計って水垢離の一つもとって、それこそ誰にも邪魔されない状態、いわば雰囲気の中でです、一心不乱に御祈念をする拝む。是れもまた言える。
けれどもやはり私は今日は、何時でもおかげを頂かせて頂けれる意味合いにおいてはです、絶えず私に私共は是れは私の場合を言うと、もう是れを何時も願っておると自分で思います。もう寝ても覚めても是れを願っておる。一心に願っておる事は、私の心の上に和賀心を願っておる。それはなら和賀心でおれると言う事は、実に本当にわずかな事なんですよね一日の内に。けれどもそうあらせて頂きたいという願いを一心に持っておる。ね。其処でです、昨日私が頂きます。いわゆる三九ですね苦労が大きい。
三は小さい九は大きい九は大きい、と自分で本当に難儀な問題を一杯抱えておると言う、本当に大きな難儀と思うならです。思うほど三の字もそれに匹敵した、それに釣り合うた三の字を持たなければ、本当の有り難いと言う事にならん。三九にならない誰でん朝参り一日。一偏参ったと言うだけではいけんのです。それは参ると言う事だけじゃないですよ。これ参ると言う三と言う字は信心と言う事です、または修行と言う事なんです。ね。自分は是れ程の大きなめぐりを持っておる。
此のその巡りの為に此の様な難儀をさせられておるのですから、人並みの信心じゃ人並みです。其処で人が人偏なら私は行人偏と云う様な信心になって来にゃならん。人が一偏参る時は、二偏も三偏もお参りをさせてもらわにゃならん。それでようやく釣り合うて行く、三と九と言う字が。そう言う意味でです。そう言う意味で今日は皆さん、本気でね、この三の字を大きくする意味でです。
本気で一心に願うと言う云う所を、一つ今日一日の修行課題にして頂きたいと思う。一心に願うと云う事は、どうぞ神様のその心に叶う貴方の心に通う、ね。それを和賀心にならせて下さいと言う事を一心に願うと言う心の状態。そう言う願う信心をです、私は今日は本気でそれなさる時に、三の字が大きくなって来ると思う。そすと苦労が九が大きくても、その九に釣り合うた三の字が出ける時に、はあ有り難いなと言う三九本当の意味での三九ですね。有り難いと言う事になって来ると思うのです。
いわゆる一日を締めくくった時に、本当に今日もけっこうな修行をさせて頂いて有り難いとか。今日も思いも掛けない広大なおかげを頂いてから勿体無いとかと言う三九なんです。是れは三と九は伴うておかなければ、そう言う有り難いものになって来ないね。今日は其処ん所に一つ焦点を置いて、信心修行をして頂きたい。この98節から、ね、前半の所に申しました様に、やはり私共信心させて頂く者は神様に何時でも、何処ででも、お伺いの出来る様な状態。
それを平気な心とかまた、落ち着いて静かにとかと言う風に教えておられます。やはり、稽古であります。神様がお伺いしたけれども、何も返事も下さらなかったと。そんなに、その、てん早安うですね。神様が一々私共に御返事を下さる程しのおかげって言う物は、そんなに頂ける物ではありません。けれどもやはり稽古です。お伺いさせて頂いておる内に、一番簡単なと言うかね。所謂胸知らせ位な事は、何時も受けられる様になるのです。また手みくじぐらいは、すぐ下りる様になるです。
教祖の時代に教祖様はそう仰っておられた。ね。教祖様のお直信、女の先生で、高橋富恵と言う先生がおられた。その先生が書いておられる物の中に、それがありますよね。先生が御信心を始める頃、昔の人達はすぐ手みくじ位は頂きよったけれども、この頃は学問の時代になって、あんまり賢うなって、ね、神様にお伺いをしても御返事も頂けない信者ばっかりになったと言う意味の事を仰っておられます。ね、今頃はその時代から百年も立ってますから、もっと人間が賢しゆうなった。
中々神様にお伺いをする等と云う様な、古風な事は却って可笑しいと言われる位にしか思わない人もある中に、やはり教祖は此の様に教えておられますからね、心の状態を確かめて、そして静かに平気な心で神様にお伺いをする稽古をね、繰り返し繰り返しなさるがええ。ハッキリお声でお知らせを下さる事もある。ハッキリもう心の眼にハッキリ返事を見せて下さる事もあるそれは様々です。けれども一番初めに頂くのは。
今高橋富恵先生が仰っておられる、手みくじと言った様な簡単な御神意を、その現して下さる様な場合もある。同時に胸知らせと言って。自分の胸に思うじて下さる。お伺いをしよるとそれは右が良いぞ、左が良いぞともう強く強くその、そうしなければおられない程しに、胸に知らせて下さるんです。是れが一番初めの頃です胸知らせ。でもやはり受けさせて頂けれる信心を頂かせて貰わなければ、さあ一偏一偏に合楽に走って来る。来んでも良い様な、ね、おかげを頂かにゃいけんと思うです。
どうぞ。